数学個人授業4

明日は数学の日、となってから、あたふたとノートを開く。
今のところ、拒否反応はない。
つまずく箇所は多々あるものの、解答を見ればなんとかついていける。

これだけのことしか習っていないのだから、これだけの知識で解決できるはず。

自分のホームページに掲示板を取り付ける作業にちょっと似ていたりもする。

今はレンタルで簡単に掲示板が取り付けられるが、広告が入るし、遅かれ早かれスパムに侵されて不愉快なことになるので、レンタルではないヤツを頑張って取り付ける。
慣れればどうってことないのだけれど、久しぶりだったりすると、なかなかうまく実行してくれない。スクリプトの中の , . ; 何か一つ違ったら動かないし、原因を探すのが結構大変。
でも思うのだね「何か原因があるからだ」と。
自分で仕様をちょこっと変えたい時も思うのだね「ここらへんを変えるのがポイントに違いない」と。


で、今は数学。

2次方程式の解の公式を使って解く問題で、

x二乗ー2√3x-2=0  の答が  √3プラスマイナス√5

となるのが納得できなかったのだけれど、結局√4は2であるからして、分母の2と相殺されるということなのね。よし、わかった。(2011.6)

数学個人授業3

2次方程式の解の公式。
なにそれ、初めて聞いたわ。

ax二乗+bx+c=0の解は、x=2a分のーbプラスマイナスルートb二乗ー4ac

ふっう~~~~~ん(態度悪・・・)

でも、それとは別に、たすきがけの法則っていうのは、ちょっと記憶の底をかするものがありまする。

まぁ、「時間内に解く」とか「試験がある」とかいうことが無いので、なんとなく楽しんでやっております。。

からからに乾いた固い土も気長に少しずつ水を与えていると、時間はかかるもののそれなりに緩んでくるかもしれません。(2011.6)

数学個人授業2

数学の得意な人に聞くと「数学は答が一つに決まっているところが好きだ」という返事が返ってくることが多いように思う。

確かに、教えられた通りの道順を辿っていくと、目的地に到達する。
でも今の私にはそこが目的地なのかどうかがよくわからない。
解答を見て「あってた~」と喜びはするが、解答を見ずしては「出来た!」と自覚出来ないのである。

家で机に向かって数学の問題を解いているのは結構楽しい。
人間には向上心というものがあるし、出来なかったことが出来るようになるのは理屈抜きで楽しいものである。

塾に行って先生の目の前で同じ問題を解こうとすると、あ~ら不思議、家では出来たものがかなりの確率で出来なくなる。
緊張するせいもあるが、やはり身についていないからだろう。
2時間かけても、新しいことを一つうまくいけば二つ頭に刷り込むのがやっとという状態だ。

大学を受験するわけではないから、いくら時間がかかっても自力で正解を導くことが出来ればそれでいいのだけれど、どうしてこんなことがやりたいのかな、とふと思ったりする。

出来ないことが出来るようになるのは楽しいのだから、それが語学であっても漢字検定であってもいいし、その方がある意味「役に立つ」。
それでも数学がやりたいってのは、いったいなんなのかしら。
自分でもよくわからない。

さて、今やっているのはこんな問題。

※ aを定数とするとき、次の2次関数の最大値を求めよ。

  y=-X2乗+aX+3 (-2≦X≦1)

  ヒントは「頂点が定義域にはいっている場合とそうでない場合に分けて考える」である。

今回の山場なのだそうです。(2011.6)

数学個人授業1

私が数学と縁を切ってしまったのは中学1年だった・・・早い・・・
たくさん勉強して中学受験をして志望校に入れたというのに、何故かぱったりと勉強をしなくなった私。
今ならば、燃え尽き症候群とか言うのだろうが、自分ではそんな自覚も無く、ただただ「勉強をしない日々」をおくっていた。

それでも、国語や英語などはそれなりについていったのだが、他の教科、特に数学は全くのお手上げ状態と化していった。

高校受験がある学校なら、そんな状態で放置はされないと思うのだが、幸か不幸か大学の付属校であったため、私の状態は見て見ぬふりを自他共にされて、そのまま私は大人になってしまったのであ~る。

「数学」。私には憧れの二文字である。
「数学」の問題が解けるってどういう気分なんだろう?

そんな思いが高まってきたのは、仕事を辞めて時間が大幅に増えてからのことだった。

高校数学を教えてくれるカルチャーセンターなんぞ無い。
放送大学も「大学」だから「高校数学」は無い。
家庭教師? それはちょっと。

そんな時、検索をして見つけたHPに「大人の算数教室」という文字があったのだ。しかも我が家から至近距離である。
迷わずメールを送り、自分は算数ではなく「数学」をやり直したいのだという気持ちを伝えてみた。

するとすぐにお返事を頂き、なんとマンツーマンで数学を教えてくれることに話が展開したのである!
1回2時間で2500円。 

そんなわけで始まった私の遅まきながらの数学ライフ。
「数学最大のテーマ:2次関数」から勉強をしている。

今日はその3回目、自分のアタマの固さに舌をまくばかりだが(使い方が違うのはわかっている:笑)今のところ、なんとかついていっている。

周囲の人間誰にもこの話はしていない← 理解してもらえないと思うので
ため、ここで色々つぶやかせてもらおうと思う。(2011.6)

脳に負荷をかける

 時々無性に脳みそを使いたくなる時がある。テキストを開いて勉強したくなるのだ。己の向き不向きを考慮しないで挙げてみると、気象学、生理学、経済学等に惹かれるものがある。机に向かって教科書を開きノートに書き写したりする作業を無性にしてみたくなる。脳に負荷をかけるのはある意味気持ちがいい。ここ数年で最も脳が悲鳴をあげた本は日経が出している「経済教室セレクション」である。何しろ書いてあることの9割がたが理解できない。この文章を書いている人がいる、片や私は読んでも理解することが出来ない、この事実はかなりショッキングであった。ごくたまに引っ張り出して己の無知蒙昧を確認して自虐的快感を味わっている。

 ところで脳に負荷をかける意味もあって数年前に数学の個人授業を受けていたことがある。夫が病に倒れたために中止となってしまったが、その時にブログに書いていた文章があるので、写しておこうと思う。

私の付加価値

「新聞とかとか雑誌によく女のエッセイストが身の回りのあれこれについて、読者の皆様よりは、ほんの少しだけ鋭い感性の光るエッセイを連載しているでしょ」と語るのは金井美恵子「お勝手太平記」の主人公アキコさんである。ぐさっときちゃいますよね的を得ているから。世の中の奥さんよりほんの少しだけ文章を上手に書くことができる私に付加価値を付け得るとしたらそれは何かと考える。

 62才で倒れて障害者となった夫。

重い言語障害は彼が今後の人生を生きていく上での大きなハンディキャップとなったし妻である私の大きなストレスともなった。しかしそれは誰もが体験出来ることではなく、角度を変えて見れば大いなる財産でもある。特に今私が考えているのは、もし我々に孫が誕生し、その孫が言葉を獲得していく発達段階に言葉を失っている夫が立ち会った時、どのようなことが起きるのか又は起きないのかということである。実に興味深い実験である。私はこれらのことをつぶさに記録しておきたいと考えている。そしてそれを発表したい。

 しかしながら孫はまだこの世の中に存在しない。待ち遠しい・・・・・。

植物の力

 一昨年広島から引っ越す時に連れて来たシクラメンデンドロビウムの鉢は去年はどちらも蕾一つつけることがなかった。沖縄との気温の差になじめないのだろうと思ってずっと気にかけてきたのだが、今、それぞれ沢山の花を咲かせている。自然の適応力はすごいものだ、そして植物が人に与えてくれる力も大きいものだ。

 長い間動物が身近にいる暮らしをしてきたが、最後の猫が亡くなってもう半年以上が経つ。温かく柔らかな生き物がそばにいないのは何とも寂しいものではあるが、命を預かる重さから解き放されてたいそう楽になったのも事実だ。今の気持ちとしては、犬や猫はもちろん、小鳥も金魚も預かりたくないし、もっと言えば花が咲く植物も近くに置きたくない。うまく咲かせられなかった時がせつないからだ。そんなわけで、多肉植物に魅力を感じ、そのささやかで小さな変化を楽しむのが身の丈にあっていると感じる。サボテン男子なるものも最近は存在するようで、その気持ち、わかります!